昭和42年4月20日 朝の御理解 「入力者 千鶴子」
小さな信心では息詰まる、大きな信心をせよ、小さな信心では息詰まる、大きな信心をさしてもらうと、小さな信心とか大きな信心とか、どうゆうような信心をもって大きな信心とゆうであろうか。昨夜でした。いつもこの20日とゆう日は菊栄会の方達が、あの必ず御大祭の慰労とゆうか、私を労うて下さるとゆうような意味合いで、必ずこの20日とゆうだいたいは今日菊栄会の当日ですけれども、その日、一じつ、まあ、一晩泊まり位で、どっかしーづかなその、温泉かどっか私を、菊栄会の全部の方たちが、私を連れて行ってくださるとそして、もう全部の方たちが、それこそもう手取り足取りしてまあ、奉仕してくださる訳でございますが、もうお、10年も続いておりましょうか、初めの間は一日がひがえりでございましたけれども、疲れを癒して頂くためにとゆうて思い立ったのにいちじつがえりではもう、代えってそのおう疲れられるようなことだから、せめて一晩泊まって頂いてゆっくりまあ休んで頂きたいとゆう願いから始められた話しなんでございます。もう、十年もつづいておりましょう。春、秋の大祭から必ず二回、どんな事がありましても菊栄会の全員が揃いましてまあ、一つのそのう( ?)菊栄会達の御用の行事になっとります。まあ、御承知のように皆さんも、まあ、次の総代候補とゆうような方たちばっかりのメンバーでございます。ま、椛目の信心のあるいみあいでは(?)あるいみあいでは御用団体でもございます。たしかに。 もう総代さんから総代さんに継ぐまあゆうならかいごう会でございます。ですから、そのうひとつのまあきえいを持った会ですね椛目ではあの、椛目の菊栄会、御大祭の時には全部今度は、あ~のう菊栄会のユニホームじゃないですけれどあの 黒の丁度お~ あのなんですかね、え~式服のような あー揃いの服を着ておられた方たちが菊栄会です。もう年輩(?)よかとこですもんね、さんじゅうしごから、よんじゅう代の方たちばかりです。私もお~(?)してる会です。その人たちもその今年も十八日の月次祭にみんなよりましてから、遅おうまで教義した結果、まあ、何処に行こうかとか、どゆう、計画の基にこんどはおかげ頂くかと、もう、いつもいつもおんなじようなケースでもいけないからとゆうので、ま、様々の心を持ってそれこそもう真心の限りを尽くそうとゆう訳なんです。ところが、きのうある総代さんがですね、先生そのう(?)一晩泊まりとゆうことは困ります、今あのきょう夕方から、明日の御祈念はつかえて下さるでしょうけれども、あさっての朝の御祈念が親先生がおんなさらんといかん、まあせめてそのういちんちでかえって来て貰わなければ、とゆう訳なんです。それもそうだと私も思うんですね、それを聞かせて頂きよりましたらですね、あらなんてゆうですかこんなあの大きなネジをこう緩めたり締めたりするっとがありましょうが、スパナっていうですかね大きななんていうですかね えっ?スパナですかね!こんなおおきなんですよそれをいただくんですね それにその例えば小さいネジがひとついただくんです ところがその小さいネジではあの大きなドアーには役にたたんのです 私は菊栄会の方たちはこゆうある意味合いで大きな信心を目指しておると思んですね、椛目ではでえ大きなそのスパナのようなものだとそういう意味ではわたしはわたくし自身が小さかったら折角のそうゆう大きな道具を持っておる人たちの(?)ひっかからん役に立たないことになる、そこで私自身が大きくならなければこうに填らないん訳なんでそのあとゆうなら反対にとってもよかろうかとこうおもいます 私が大きくてあの人が小さいとゆうてもいいかもしれま
せんけれどもまあ私としてはそう考えた、折角その大きな信心を持っていきよんのに、わたしが小さかったんじゃったら、はあ~もうお 御用大事これは間違いない御結界を執する御結界をほんとに守り抜かして頂くと これはもう勿論そうゆうことではございますけれどもねえ大きな信心とゆうても(?)といったようなのん気なと、まあよかよか、そらこまいこまいとゆうような意味ではない ね ほんとに大きな信心を目指しておる人たちの大きなおかげを頂いていただく為にも私が大きないわばこの、ネジとゆうかそれにならなければ折角のこれに填らない、私がちいさかったんじゃ、役に立たない、わたくしが役にたたんならこの御用も役に立たないことになる、双方がおかげ頂けんことになるんです。これでは、 ね ですからこりゃ一番わたしがおおきゅうなる以外になるにゃないなとおもたから総代さんたちにいゆうんですよ。例えば先生たちが、いちじつを通していちんち御用をさして御用じゃないまあ、大祭の後の色んないろで良いいちんち泊まりでおいでになられた、そんなら当日の御大祭、あんたがたが今日は親先生の代わりとおもうて例えば普通やあ、普通なら総代さんが五人しか出てこんとに十人とも出てこん、明日、先生御祈念の先生がおられんから、ねっ 総代が力合わせてひとつ先生が居られんだけの信心をカバーしていこう、といゆうようなわたし信心になられたらです、信者一同がかえってはずんだごたる又おかげが受けるだろう.いつもかつも、て言う訳じゃない、それで先生が朝の御祈念に居られないその当日だけ位は、総代さん達が皆で、え~あすの朝、あ~総出で御祈念に参加して頂こうというような具合にいっちょしたらどうですかとゆうてまわしたことでございます.ねっ あ、そこで、んなら私が大きくなるという内容はどうゆうような物を持っておおきゅうなるのか、ねっ 信心がまあ~私、端的にゆうならです おかげ信心はどうゆう大きな信心がでけておるようであっても、そりゃ小さい小さい信心だとおもうですね.おかげ信心にとどまっておるとすれば、昨夜も田主丸の田代さんの五十日祭でございましたからねほんとにあのえ~、え~ありがたい五十日祭でございました。ですがあーん、御霊様もよろこんで下さった、親戚の方たちもほんとによろこんで、え~いただいたとわたくし思うんですけれど、もしですね、小さな信心であったらもう信心は続きませんよね、家の大黒柱、家の中心といったような人があれだけ信心しよって亡くなったちよとまだ、(?)まだあの若さでですたい、亡くなられたとゆうだけでもです、もう信心もヘチマもあるもんかとゆうことになってくるでしょう、これが小さい信心です、ね、わたしがいただいておる身教えのようにです、小さな信心では、必ず行き詰まる、大きな信心には行き詰まりがない、おーきな信心をさしてもらえとね、それは日頃わたしがゆう大海のような信心というのも成る程大きな信心でしょ、清濁遇い難とゆうかどのような物が流れこんで来ても、平気でしておれれるとゆうんですから、ね、そこには苦情が進むようなおかげをうけられんですけども信心しょってどうしてそげな事がおこったじゃろうか?信心しよってどうして死んだじゃっろうか、これはちーさい、いわいるゴリヤクしんじん、おかげ信心にとどまっておる人が思う事であり、ゆうことなんです。ね、大きな信心とは ね や、本当の信心を求めるとゆうこと、それが目の前が真っ黒になるようなことがおこっても、その事を通してその事を踏み台にしてです一段とわたくしは信心が意気をづいてくるとゆうような信心を持って大きな信心だとおもうんですね。夕べもそのことを話したことですけれども、丁度あの、久保山先生がまだあ~13年前です、椛目の御信者2~3人の方に、その方が頂いておる御理解を集めて31日間のえ~日ごよみを作ってやっておられるんです、それがむつやにもございます丁度その19日とゆうところにですね、ちょっと私え~暗記しとりませんけども、こうゆう事が書いてあった。「元気な、あ~信心におかげがたつと、しおれた心にはおかげはなし。」といったとゆうような意味の御理解でした。しおれたこころ。ねぇ【?)ときにですね、元気がでるような信心だったら 日頃信心の稽古をしておかないかんとゆうこと ただ、御利益信心にとどまった信心ではなくほんとの信心を解からしてもらう為の信心の稽古がほんとになされてこなければならない(?)たたかれりゃあ痛いんですから、ねえ 暑けりゃ暑い、寒けりゃやっぱ寒いですけども寒かっても暑かってもです、かえって、その事によって元気が出るとゆうような信心を、日頃いただいてこなければならない、人がしおれたときにしおれたのじゃない、かえって(?)葉のそこからわいてくるような元気な信心におかげがたつのであり、しおれた心にはおかげはなし とおっしゃるです。ねっ ですからわたくしどもがこうやって、毎日信心の稽古をさせていただいておってもです、ほんとに目の前が黒なるような事にが に、直面するような場合いもあるんですけれど、これはまだ、わたくしの信心が足りんからだと、一段と信心を進めていけば そこからおかげが受けられるとおっしゃるんでございます。ねっ、難儀な問題とゆうことをですね、(?)信心の励みとしてです、一段と信心を進めて行けば おかげが受けられる 今まで受けられなかったおかげが、受けられる事だけは間違いないです。昨夜、私、あのー、あちらへ着きまー着きましてすぐ、あの、神様へ、あのー 御用させてもらう時に、座った途端に いただきますことはです 「山焼けてえ~、山焼けて、また、燃えいずる、わらびかな」 とゆうことを頂きました。これは 余談でございますけども、昨夜、修行生みんな一同で、お礼に出て参りましてからしげおさんが、先生、あのう、御理解の中で一口言われた時にもう、わたくし身が、ずーとしました、ち、てから、しげおさんが、いいよりました、それがです。昨日 のお供え物を買いに、久留米までいっとるんですよ、ねっ 田主丸の町をみなさんも御承知のように、何かがありますよ、けれども、やはり、もう、少しでも立派な物を、少しでもと、こう、おもたらやはり、久留米までいかなければいかなかったと ゆう訳なんです。そうゆうような真心で、その久留米に買い物に行ったんです、野菜屋で、野菜を買う時にですね、私、思わず知らず、いつか先生がおっしゃた、の、おうー今のこいこがある有名な先生がそのう、おう、御本部におられた先生がですね、当時、教官をしておられた、ある教会で火事になった、もう、それこそ 意気消沈して、御本部にお届けに出てみえた時にです その先生が その、おー意気消沈ておる先生に、さししめられたこれは、教えの句です、ね、その御理解を昔、そのしげおさんに聞いておったんですね、それを覚えておった、お野菜を買う時にですね もう口から思い知らせが出てくるんてですね 「山焼けて、また、燃えいずる わらびかな」口の中で、そのうとだえ、とだえあのうわらびのお供えのわらびを買わしていただいたちゅうんですね、へやで そしたら開口一番親先生が御理解の時にいわっしゃたのが、その事じゃった、ほんとにもう、驚きました、ててからその申しておりましたがです ね、山焼けて また 燃えいずる わらびかな。ね、それこそ難どういう難儀があっても、その難儀という事が、の おかげでです、難儀にならなその難儀とゆうもの通り抜かなければおかげを受けられないおかげをです、「また 燃えいずる わらび」にしていかなければならない、とゆうこと、ね、わたし大きな信心とは そういう信心だとおもうんですよ。うっ 息詰まりがないでしょうが、ね ですから何かがあるたんびに確かに難あって喜びである、難はみかげであると言う事が解かります。そんなら誰しもその 山焼けて また燃えいずる わらびかなになっておるかというとです、焼けたら、焼けたぎりでも、おしまいになったという人達が 沢山、ございましょうが、そこに 真の信心というか、大きな信心というか、それが必要であるという事になってくるのです ねっ 真の信心を大きな信心を求めても常日頃の信心でなかなければならない、という事、ねっ 私は本当の事をゆうたらです、ねっ ほんとうの事をゆうたら 夕べその、総代さんが申しますようにです わたくしをいちんちの慰労つなんか実際、ゆうたらいっちょん求めていないのです、本当ゆうたら、あたくしは御結界に奉仕した方が一番、楽なんです、ほんとです。これは ね いうならばあたし菊栄会の方たちを、守りしに行くような感じが致します、成る程、私を手取り足取りするだけでない、菊栄会の連中が皆、手取り足取りしてくれる訳なんですけれども、もっ 手取り足取りしながらです、菊栄会の連中はもそれを一番の有難いものとしての、ものを感じます、ねっ けれどもそうしたほな菊栄会の人たちの真心をわたくしがほんとに有難く受けぬかして頂くという事によって、私もおかげ頂く、菊栄会の連中もおかげが受けられる事を確信して、わたくしとこに一段とおおきゅうなっていくとゆうおかげを受けていかなければならないのでございます、ね わたしが、いや、いや、わたくしは (?)申した事でございます、あるところに わた 丁度ここに総代さん方があ~話合いで、この先生をある所に招待しょうという話がでたんです わたしが喜んで(?)の話を申しましたら いいぇあの 御結界が大事だ 御広前が大事だから もっそげなことは、ご遠慮する、成る程立派な事のようですけれども、わたくしは小さいと思うですね まだ、( ? )のかたは、そのことは覚えておろうと思いますれけど、ね だから、わたくしはそれを私自身が、待ち望むというような事であっては、これはつまりませんよ 「あー、大祭が済んだら、また、何処の温泉にいかれるばい」それがその、楽しみのようなものを持っているとしたら、これはほんとに駄目です。それでもわたくしはほんとの事を ほんとうの事をゆうたら、わたくしは御結界に、いこう、座らして頂いているのが、一番、楽なんです、ね 問題は人を助かる事さえできれば人の一所懸命のまごころというものがです、ねそうした、純粋な、あらわことにあらわれてくるんでございますから それをまた受けて行くとゆうことも 信心であること同時にそこを私が一段と 大きくならなければいけないとゆうことなんですね、昨日、御道のおー新聞がまいりましたその新聞に(?)書いとりましたが、え~ アメリカ辺りではよく大変な 富豪といわれるような ( ゲップ ) お金持ちの方たちが亡くなりましたですね その財産をお~宗教団体とか、公共事業なんかに、全部このう献納するんですね。なんか 結構なことだとおもいますよね、ところがね、死んでからどん出したちゃっつまらんち ゆうことを書いてありました、ね それではですね、無尽蔵のおかげは受けられんていうこと、ね 生きておる生きたうちに使わなゃん生きておるうちに じゅぶんが生きとうちに、お役に立つところに つこうとかなければでした、わたしほんとに金光教の信者はそれだと思うですね キリスト教あたりでは知りませんだからアメリカあたりでは全部がキリスト教ですから、キリスト教的心神てゆうのは、じゅぶんが死んだら、財産なんか 子供に譲るよりか かえって公共事業にでも使うということがですね まあ常識のようらしいんですよ、けどもそれではほんとじゃないですね あるいみ金光教の信者はそうじゃないです ほんとにわたくしは、持っておる間に、生きておる間に、そのお役に立つ御用にたたして頂くとゆう事が、ですね も、これはもう無尽蔵なんです、限りのないおかげを頂けれる、いわゆるお徳を受けるものなんです、これはこれも私、今日の大きな信心という事には そいうものが 内容として含まれておなければならないとおもいます、そういう意味じゃ私はこのこと田代さんの御霊様に捧げるような気持ちで、申し上げたんですけれど 田代さんてゆう人は確かに、人( ? )大きな御用に立った人ですね。例えばこの御造営なら御造営のことにでも やはりそういう意味合いでは 御用の第一人者でございましたでしょうね。ね 生きとる内に、御用させて頂いておる、それが徳にならんはずがない、それがいわゆる限りなく回転していくとゆうかね、いわゆるそれを夕べの御理解で頂きますと肝心作用と頂きましたですよね、ね 天地に通わしていくね も通わしていくうちにあーた、それが根肥やしにならんはずがないとです それが生きとるうちになさなければ駄目だということでした。これなんかでも、生きた信心、大きな信心をしよならければ、できるこっちゃないと思います。みなさん 小さい信心では息詰まる、はあ、わたしはもう信心が解からんごとなった これはあんたが小さい信心の証拠なんです とわたしはいい言いたいですね、んなら困った事がおこってくるとです これだけ信心しよるのにと と いうならばです、もあーたがちーさい信心しよることになります、小さい信心には、絶対に息詰まりがある、大きな信心には息詰まりがないです ね 息詰まりがない大きな信心を目指しての信心なかなければならないですね、同時にどうぞ お~今日、明日の朝の御祈念だけは私御無礼することになるでしょうから総代さん方だけではありません、みなさんも先生がおらんなら尚更一段と、生き生きとした朝の御祈念が仕えられますような、おかげを頂いて下さるようにお願い申しあげます。 どうぞ。